昭和54年12月28日朝の御理解
御理解 第77節
「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ」。
今日は77節のところですが、これが八十八節ならみんなが嬉しいんですよね、広がりに広がるというわけです。今日は77節。この7という字はこう曲がってます。だからこれをちょっとこう真っ直ぐすればプラスに、プラスということになるんです。いわいる広がりに広がるということになるです。信心はもう日々の改まりが第一と仰るのですから、はぁどういうところがおかげの受けられん元だなぁと、これが広がりに広がっていくおかげに繋がらないのだなとやはりまずは、分からなければなりません。
ただお願いをした。おかげを頂いたというだけのおかげでは味がない色がない。改まれば改まるだけおかげが大きくなる。豊になれば豊になるほど豊な物にも金にも不自由せん様になる。心が豊でない狭い。そこには豊おかげは生れません。大きなおかげを願うというても受け物が小さかったらおかげになる筈がありません。昨日臼杵の志垣さんから電話がかかってきて、前日あちらの謝恩祭とそれから慰霊祭がございました。
もうあんな謝恩祭をあんな慰霊祭を、もう本当にしかも手応えのある、もうこんなにありがたいお祭りを仕えてもらったことは、過去にございませでしたと、ある教会で長年信心しておられるかたでしたから、もういうなら手応えがある。そして帰り道々家族中のもので、志垣一家のものではなしあってまいりましたことはというお礼の電話が昨日はございました。御理解に頂きましたように、この果物籠のまぁそれでももうやっぱりこのくらい大きな、もういっぱいの果物がいろいろ盛り合わせてある。
まぁだちらには沢山あるけども、もうこれ以上に一つでも持ったら、もう転がり落ちると言った様な感じのお知らせを頂きましたから、神様はまぁだ限りなく下さろうとしておるのだから、果物のお知らせは新鮮、いわいるフレッシュとこういうんですね、果物は新鮮さが値打ちです。その値打ちあるおかげがね、まぁだ沢山下さろうとしておるんだけれども、かんじん要のこの籠が小さいからこれを、もうちょっと大きくしなければ大きなおかげは受けられないよという御理解でしたから。
もうそのことばかりを、まぁ話し合って帰りましたと。もう特にもうあといく日で新しい年を迎えるのですから、もう今年中にここに家族中のものが話しあって、協力しあって、お互いに大きくなろうじゃないかというて、もう大変有り難い話しをしながら帰らせて頂きましたと、どうぞいよいよ豊に大きゅうならせて下さいという、昨日お礼の電話の中にそういうお願いがございました。その通りでしょうが皆さん。もう本当に値打ちのあるおかげが、まぁだ横にはいっぱいあるとじゃろ。
そのもう一つでも是に盛ろうとすると、もうそれは盛ったとしても他のはコロコロと転がり落ちてしまう。結局豊な大きな受け物を作らなきゃならん、為には私どもがいつも日々さらな信心と言う事は、私は新な信心と言う事はね、改まらなければそげなものは生まれて来んと今日は私は思いました。新しい信心新しい信心ばっかり言うたってね、いかにも新しい事は覚えたけれども、後の事は忘れてしまうならもうこんだけ。新な信心とは日に日にいうならば改まっていく。だから新しいものがでて来る訳です。
改めて通るから次の新しいものがでる。いわいる新の信心とは、そういう信心だと思うんです。いよいよ豊に大きくならにゃいけません。昨日こういう有り難いまぁ信心ちゃありがたいねぇ本当に限りなく神様は、心の進展を図って下さるねというて話したことでしたけれども。熱心に信心がお婆ちゃんがでけられます。ところが嫁さんとても優しい気立ての優しい嫁さんですけど、そのお婆ちゃんにだけは良くないんです。もう本当にそりゃほんなこっちゃあるかと言う様に。
そのまぁいうならば別人のようにってまぁお婆ちゃんをまぁいうならイジメる訳ですね。それはもうお話にならない。ところが先生もう家の嫁はもう他所の他所人の人にはとっても優しいんです。なるほど顔だけでもやっぱ優しいしとんなさるです。だから始め私は、ほんなこっちゃあるじゃろうかと私は思うくらいでした。ところがやっぱりそのお婆ちゃんにだけは、まぁ辛くあたる。辛くあたるというよりも本当に、本当じゃなかろうかと言った様なことを言うたりしたり平気でやるわけです。
それで人に悪口でも言よるならば、ありゃもうお婆ちゃんの方が悪かとしか言わん。というふうに人には良いんだそうです。人が本当に受けてくれない。だからもう悪口を言わんことに決めました。人には話さないことに決めました。ただここでお取次ぎを願われるだけなんですけれども。昨日はそれは、もう本当に心が豊になる、おかげを頂くということは有り難い事だねというて話した事でしたけれども。あの神様のお掃除をする。皆さんの所でもそうでしょうけれども、あのバケツはべつにしてありますよね。
フキンやら神様の道具やらを洗うバケツを別にしてある。もうそれをはっきり知っておきながらです。昨日帰らせて頂きましたらその中に子供の靴を漬けとるげな。けれども私はそれを見たとたんにです。なんか可笑しゅうなりましたっち。もういよいよ神様が私に改まれ、改まれと言うておられる試に試しておられる。もうこれは信心させて頂くと、もう信心の事を神様の事をとやかく言われたり、そういう神様の自分がこれももっておるのも、守れないように。
こうにくじのようにされたりすることが一番大体が腹が立つわけです。ところが昨日その時ありましたけれども、もうまた別に新しいの買えば良いのだからと、またそれはゾウキンバケツに普通に落とせばよいのだから別に損になる事もない。それでそう言う事をする嫁の心がです。ならもう可笑しゅうなって、そしてやはり祈らずにはおらなかったと。私は陰で人を助けるということは、そう言う事じゃないかと思う。
誰ぁれ知らん。そう言う事を祈っておる事を誰も知らん。私が一番大事にしとる神様、しかもあんなにいうならば、神様だけには、厳格にさせて頂いておるのに、しかもそのバケツで子供の靴を漬けると言う事は、なんと言う事かと、言う風な思いが更々しなかったと、今までは随分その事でまぁいうならばイジメられていた感じですけれども、昨日ばかりはそうでしたとこう言う訳です。皆さん私でも同じですけども、ございますでしょうがどうした人だろうかと、これは私は信心の場合なんですけれどね。
せっかく信心をしておるせっかく修業をせておる。日々これだけありがたい御理解を頂きながら「どうしてこの人は、いつまでも分からんだろうかと言う様な、気が致しますもんですけれども。最近今を喜ぶと言う事に、言わば取り組ませて頂いておりますが、もう一切が今を喜ばせて頂く材料ばっかりですね。いわいるどうした人じゃろうか、どうしたやつじゃろうかと言った様な事はないです。そのおかげで私の心が大きくなる。そのおかげで私の心が豊になる。と思うたらやっぱり今を喜ぶです。
有り難いもう限りなく大きなおかげを下さろうとしておる事を、お礼を申しあげるより他にはない。悪口をいうことなんかもう更々ないです。家の息子が家の嫁がとこういうようなことない。おかげで私が豊になれる大きくなれるのです。でそれが段々そういう稽古させて頂いておるとしまいには、それこそその方今お話申し上げた方のようにです。可笑しゅうなってくる。そしてそれを陰で祈ってやれる心が生まれてくる。いよいよ豊になるだけではなくて美しゅうなっていきよる。心が。
そこにいうなら豊な大きなおかげが、それが確定りっぱな本当のものになった時には、そういうおかげに必ずなってくるというふうに思うです。大きなおかげを受けたいならば大きな心にならにゃいかんです。子供の事が目についてたまらん。まぁ自分の周囲の者のことが、もう本当にその足元ばっかりが見える。いよいよ自分が大きなおかげを受けられない自分をまず知るがよい。そしてそこを改まっていくが良い。その七の字をきゅっと真っ直ぐしていけば良いのである。
77節です。今日は77節改まりに改まる。そこからプラスにプラスと言う様なおかげ、これが88節なら広がりに広がるというとことでしょう。それをプラスにプラスにしていくような、おかげの頂けれる心の状態を作っていくために、いよいよ豊な大きな心を願わしてもらわなければならない。為には私が毎日今実験させて頂いておる。今を喜ぶこのことは喜ぶけれども、この事だけは喜べんということは絶対ないです。
もう四六時中喜べておることになるです。もう今を喜ぶ。そういう信心の心情を心にしっかりもって、おかげを頂きますと、それこそ目にあまるようなと今まで思うておった、その目にあまるような事柄がです。おかげで大きくならますとお礼が言えれるです。そして、それがもしいけないことならば、祈っていくという陰で人を助けるという働きにもなってくるわけですよね。
どうぞ。